フォーカルジストニアの自覚〜手術決断まで
このフォーカルジストニアという病気の兆候を感じ始めたのは手術から約2年前、ギター演奏の仕事を少しずつ頂きはじめた頃のことでした。
もともと私は高校生の頃からブルースという古い黒人音楽が大好きで、独学でブルース音楽をたくさん弾いていました。
そのブルースというのは、
あまり左手の小指を使わない演奏をするタイプの音楽で、(少なくとも僕はそういう弾き方をしていました)
そのため左手の小指を使う奏法が苦手でした。
小学生の時小指を突き指してから第二関節が変形してしまって、うまく力が入らなかったのも原因だと思います。(確か体育のバスケだったような…鈍臭いですね笑)
その後にバリバリフュージョン時代の超絶テク系ギタリストに師事し、小指を使ったテクニカルな演奏の練習をする機会が増えました。
そのため、小指をからめた奏法の苦手意識を取り除くために、一日4時間以上小指鍛錬の反復練習をしていました。(2時間連続を往復でと言った感じでした…)
その後2時間〜4時間程他の練習もしていました。
そんなことを続けて1年ほど経ったころ、左手小指の第二関節が腱鞘炎になりました。
整体に通って施述を受け、少し別の練習をして、(ライトハンド奏法など)小指を安静にし、腱鞘炎は治りました。
やったぜ腱鞘炎治った!と思って今まで通り演奏してみたところ、あれ?という違和感。
左手の小指が押さえたい場所を押さえてくれません。
病み上がりでなまっているんだろうと思い、運指の練習をするも、状況は一向によくならず。
そうこうしているうちに、小指が完全にぐにゃっと曲がったまま硬直して動かない状態に。
そのため、フォームをいろいろ変えてみて練習してみたり、
小指にバレーボール選手がつけるような指用のサポーターをつけて曲がらない様にしてみたり、
最終的には金属製の短いスライドバー(ボトルネック奏法という演奏をする時に指にはめる指輪状のアイテム)を小指につけてギブスがわりにして演奏したり。
とにかく手が悪い状態のまま無理な演奏を続けました。
その頃私はビバップジャズ(1930年末〜1950年頃に流行したジャズの形式)や
ハードバップジャズ(1950〜1960)を本格的にしっかり勉強したいという意図で、ジャズギタリストの伊藤寛哲さんに師事して練習を始めていた頃でした。
はやくそれらのジャズ演奏をこなせるようになりたいという焦りも症状を悪化させていたのだと思います。
ネットで症状等色々調べた結果、自分が音楽家が特によくかかる難病、フォーカルジストニアになっているんだということはすぐにわかりました。
もちろん、定位脳手術という外科手術の存在も。
その時点ですでに小指を使った演奏はできなくなっていたので、
人差し指中指薬指の三本でなんとか演奏をしていました。
その他筋肉弛緩剤を飲んで演奏に臨んだり、マッサージに通ったりし、大丈夫だと自分に言い聞かせながら生活していました。
今はこんな症状に構っているひまはない、自分にはまだまだ音楽的に勉強するべきことや経験すべきことがたくさんあるんだと…
そして手術の5ヶ月程前、あるブライダルでの演奏中突如、自分の演奏に決定的な亀裂を感じました。
とても簡単なオープンコードのGコードが弾けなくなってしまったのです。
その場はなんとか他のGコードボイシングで乗り切り、直ぐに自分の手の状態を確かめました。
それまで弾けていた演奏、
自分が得意だったフレーズまで全て弾けなくなっていました。
小指だけでなく、薬指もぐにゃっと湾曲して固まってしまってしまったのです。
手の小指と薬指との神経は強く他の指に比べて強く繋がっているので、小指の影響をうけて薬指にまで症状がでてしまったのだとわかりました。
その時の絶望感は、今でも忘れられません。
とても人前で演奏できる状態ではなかったので、
その先に頂いていたライブのご依頼は事情を話し、
本当に申し訳ない思いで頭を下げ、キャンセルをさせて頂きました。
講師としてのレッスンのお仕事は、生徒さんが皆様ご理解を示してくださり、続けることができました。
そしてもうその時には定位脳手術を受ける意思を固めていました。
意識があるまま頭蓋骨に穴を開け、脳の一部を焼くという怖い手術だということは知っていましたが、その時にはもうなんの迷いもありませんでした。
次回は手術までの手順や手術までに自分がやった音楽の勉強、手術内容について書こうと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!